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最初は電子ピアノではじめても、弾いているうちに本物のピアノが欲しくなるのは当然。そんな生徒さんや生徒さんの親からも、楽器を購入する時の相談を受けることは、時々だがある。

しかし、楽器について相談されても、自分はピアノという楽器についての豊富な知識を持っているわけでもないし、世の中ほとんどのピアノ指導者というのは、そうではないだろうか。
だから、自分は一応の簡単な説明はして、あとは簡潔に、「新品なら予算の範囲内でメーカーや音の好みで選択すれば、だいたい大丈夫でしょう」ということ。
もし、希望が中古品なら、これは結構難しい。中古ピアノの状態というのは、楽器の専門家でないとわからないものだと思う。ピアノ指導者や演奏者などは、自分も含めて楽器については素人同然だろう。

だから、自分は生徒さんが楽器を慎重に選びたいのであれば、知り合いの調律師さんを紹介する。調律と楽器のメンテナンスをやってくれる方で、メーカー系の楽器店所属でもないから、中古ピアノをたくさん並べているような楽器店にも一緒についていってくれて、アドヴァイスもしてくれる。
一緒に行ってアドヴァイスをもらうのは当然有料だが、はずれ品を買わないためには安いものだろう。
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考えてみるとかなり久しぶりだと思った、某大手音楽教室に通っている方が来るのは。
「以前に大手に行っていたことがあって」という人はいても、現在大手に言っていて、これから移ろうと思うという人は、自分のところではあまり多くは無い。

自分は、以前にどこの誰に習っていたのかというのは気にしないが、習っていたのに身についていることが少ないと、「もったいないな」とは思ってしまう。

今回はそうではなく、2曲弾いてもらったがまずまず弾けている。某大手のグループ形式でも、弾けるものだなと一応は感心した。
だが、「もったいない」と思ったことはいくつかあった。まず、何冊もの教本なのだが、これくらいの人には必要ないものや、意味無く分冊になっているようにも。また、既にト音もヘ音も読めるのだから、別途教材を使う必要もないのではないか?とも思ってしまった。

もちろん、グループ形式だと個々の進度に合わせることが難しいから、こういった現象が出てきて、いずれは個人レッスンになっていく人も多いのだろうが、年齢が低い時の選択は簡単でもないのだろう。
ショパンのバラードといったら、やはり1番が圧倒的に有名であり、他もよく演奏されるけれど、ノクターンやプレリュードにワルツなどから有名曲を集めたショパンの名曲選のようなCDに、バラードは入っているとしたら1番が多いだろうか。

自分はショパンを弾くようになってしばらくしてからも、バラードを弾くことはなかった。特に弾きたいという感じもしなかったのもあるが、1曲が長いので、やるなら集中してある程度の期間を弾く必要があり、タイミングが合わなかったのもある。

それでも、拍手をする女性先生(当時50代だったと思う)が、バラードをお薦めしてくることがあった。
「もう1曲追加できますよね~。次はショパンのバラードも弾いてきてくださ~い」
と言って、小さく拍手をしている。
拍手先生の選曲は、なぜかあまり断りきれない感じだったので、
「バラードですか?では1番でも・・」
と自分が言うと
「う~んと~、4番ですね。4番でお願いしま~す」
と言われてしまった。

その時は、バラードの4番というものに、あまり印象が無かった。聴いたことは何度もあったはずだが、なぜか自分の脳には残っていなかったのだ。

弾きだした頃の印象としては、4番は有名な1番に比べて鮮烈な印象というわけでもなく、好きなところもあるのだが、少しのりきれない部分もあった。
しかし、弾いているうちに、そして好きな演奏なども探してたくさん聴いているうちに、1番も素晴らしいが「バラードは4番だ」と思うようになったし、聴き手を非常に惹きつける魅力のある曲だと思えるようになった。
また、4番はショパンを勉強するのはとても重要な曲であり、十分に弾きこなす難しさもあるように思えた。

あまり印象深くない曲でも、後で印象が変わってくることもある。自分も何曲がそういった曲があり、このショパンのバラード4番もそうだった。
ショパンに少しじっくりと取り組みたいという方にお薦めの曲なので、ぜひどうぞ。
音楽の専門的方向を目指す人への、助言と言うのはやはり簡単ではない。将来を左右するとまではいかなくても、少しは影響を与える可能性もある。

自分の知人が高校生のとき、声楽で大学に進むことに可能性があるのか、当時とても有名な声楽の先生に、聴いてもらえる機会があったそうだ。
1曲イタリア歌曲を歌ったのだが、有名先生は何も言わないで、考えている様子。知人も黙って待っていたが、10分しても有名先生は口を開かない。
30分・・40分・・結局、有名先生は1時間ほどして、やっと言葉を発した。
「無いとは思うが、まさかとは、まさかとは思うが。君は、声楽家の道を考えているわけではないよね?」

知人はやはり大きなショックを受けたらしいが、「俺は当時ものすごく度胸のあることしたのかな」なんて軽く言っていた。

それでも知人は、あの時有名先生の言葉にショックを受けながらも歌をやめなかったから、日本のオペラで活躍できる声楽家にはなることができた。
人の助言も聞くのも聞かないのも、そこからがんばれるかどうかも、結局は本人次第というところだろうか。
昨日書いた中学3年生に対して、もう少し詳しく、そして厳しさも入れて助言をするべきだったのかと、少し時間が経過してから考えた。

書いたように、ピアノを弾くことの心の強さのようなものは、とても感じる演奏ではあった。
だが、声部を聴き分けられていないので混乱気味のシンフォニア、上昇の音階が厳しい状態のモーツァルト、弱くて説得力の薄いブラームスのラプソディー。
そしてどの曲を弾くときでも打鍵が浅い印象であり、それでいて時々急に大きな音で弾いてしまうようなコントロールの不安定さもある。

すぐには解消できない状態にも思えてしまい、だからこそそれを言うことを自分はためらったのかもしれないが、丁寧で簡素な伝え方をしたつもりの助言の意図が、どこまで伝わったのだろうか。

自分のところにレッスンにくるという話の展開にはならなかったが、また期間が少したった時に、様子でも聞いたほうが良いのだろうか。

つい先日、少し知り合いのピアノ指導者の方から、「聴いて欲しい生徒さんがいる」ということで、行ってきた。
「少しの知り合い」と書いたのは、自分ははっきり言ってあまり知らない指導者の方で、どこかの何かの会場で2度ほど会ったらしい。
人の顔を覚えるのが苦手は自分は全然覚えていなかったが、友人を通して連絡してきたようだ。

その聴いて欲しいという生徒さんは、この春から高校生なる現在中学3年生。3曲披露してくれて、バッハシンフォニア、モーツァルトのソナタから、そしてブラームスの2つのラプソディーの2番。

当然のように、感想を言わなくてはいけないのだが、こういう状況の「聴いて欲しい生徒さんが~」というのは、要するにこの先もっと高いレヴェルでピアノを弾けるようになる可能性があるかということを、判断して欲しいということ。
それに対して、簡単に結論を言うのは難しい。
今会ったばかりで3曲を聴いて、実力の判断は少しはできるが、断定することは避けたいし、人間の可能性は結構わからないものだ。

こういうこと状況というのは、他の指導者の方もあると思うが、自分は「今聴いて、見た限りでは」ということでの現時点での感想をできるだけ言うようにしている。良く弾けていても、あまり良くない感じでも、生徒さんご本人のために、感想は正直に。
今回のこの中学3年生は、音楽への情熱のようなものはとても感じるし、素晴らしい集中力と情感豊かに弾こうという努力はわかるのだが、「ピアノを弾く」ということを、大幅ではないが、少しずつ見直す時期が必要かもしれないとは、伝えてみた。
本人にどれだけ伝わったのかはわからないが、こういう判断というのは簡単ではないし、指導者の方に対しての感想でもあるので、言い方にも苦労するところだ。
先日、「次はシューマンの飛翔でも弾いてみますか?」と、中学生の生徒さんに聞いてみたところ、「いえ、他の曲にします」と即座に言われてしまった。

「飛翔」は、この生徒さんが好きそうな感じの曲だと思っていたのだが、理由としては
「飛翔は以前からよく聴いていて嫌いじゃないのですが、何と言うのか、途中から始まっているような感じがして・・・すっきりしない感じなのです。しかも、頭の中で何度も繰り返し鳴っているような曲で、弾きたいとはあまり思わなくて」
ということだった。

言われてみれば、シューマンというのは突如始まるような出だしだったり、少し落ち着きがないような不安定さなど、独特ではある。
この生徒さんが言うように、飛翔は途中から始まっているように聴こえる人も、他にもいるのかもしれない。
先日の「聴いて」にも書いたように、ピアノを弾く上で聴くということはとても重要、そして難しいことだろう。白髪爺さんが言う「聴こえている世界が違う」のように、同じ曲を全くミスなく弾けている人の演奏でも、それくらいの違いはあるものだ。

「本来は誰でも聴こえているんだ」と、白髪爺さんは言っていたが、自分もそう思う。音楽をどのように感じるのかは、耳という器官としては聴こえていても、それを判断する脳の問題かもしれない。
音楽をたくさん聴いて、時には聞き流し、時には集中して意識。そんなことの繰り返しが、よく聴こえる耳を作り上げるのだろうか。

耳に関して、もう少し白髪爺さんの言葉を。自分が習っていた当時は、白髪爺さんは子供を多くは教えていなかったが(ある意味当然か)、指導する上での話もよくしていた。例えば、
「耳が鋭い子供は完全に弾けていなくても、無意識にバランスをとって演奏するし、譜読みのミスが少ない。そういう子供の技術を伸ばしてやる指導が大切だ」
と言っていて、これは自分もだいたいそのように感じている。

もう一つ、
「音のバランスが時々不安定になるような演奏をしても、それは悪くはない。無理に毎回同じような演奏をさせることもないな。誰かもそういう弾きかたするだろう?」
とも白髪爺さんは言っていて、話にはいつも嫌味が半分くらい入っていた。
「今弾きたい曲が、その人にとってのレヴェルアップにつながるはず」というのは、そうだろうが、ピアノを専門的に弾こうと思うと、やはりそればかりではいられない。

自己選曲は、弾きたい曲の難易度と実力を比較して、「よし、弾けそう」ということになるが、指導者の立場だとそれだけでは決定できない。生徒さんにとって、今現在鍛えることが望ましい技術や、触れておいて欲しい音楽、苦手分野の克服など、さまざまな要素と考えて、選曲しなければならない。
そして、現在だけではなく、もう少し先のことも考えた上での選曲となれば、結構難しいものがある。

振り返ってみると、白髪爺さん教授も拍手の女性先生も、自分のことを考えて選曲をしてくれていたのだろう。当時は「今どうしてこの曲?」とか「またベートーベンもやるの?」などとばかり思っていたものだが、逆に自分が指導する立場になってからは、大先生方の苦労も少しはわかるようになっただろうか。

だから、自分も生徒さんがあまり好まないような曲を、時々薦めてみることはある。
「こういった雰囲気の曲はあまり好きではないかもしれないけれど、弾いてみるかい?」といった感じで、お薦めすると、予想よりは気に入ってくれる場合もある。たくさん聴いて、たくさん譜読みをして、たくさん弾かないと、生徒さんも自身の好みが把握できていないこともあるだろうから。
ピアノを習い始めた頃というのは、誰でもレッスン曲を自己決定することは難しいだろう。仮に弾きたい曲があったとしても、その曲のレヴェルにまで届いているのか、そうでないのかは、ピアノを少しの期間弾き続けないと判断が難しい。

自分もはじめの頃は選曲に関しては指導者にまかせていたが、それほどしないうちに自分の弾きたい曲を主張するようになった。そうなると、指導者の薦める曲と、自分の決めた曲、練習曲、多声物、など4曲5曲と増えてしまう傾向にあったが、それでも希望曲が入っていた方が、練習も楽しくなるものだ。

もちろん、指導者と意見が合わないことはあり、毎度登場する白髪爺さんには、
「次は何弾くのか決めたのか?」
と聞かれて、希望を伝えると
「いや、それよりはこれだ」
となり、半分喧嘩のような状態になり、なかなか決まらないことも多く、
「じゃあ、来週までに全部弾いて来い」
などという無理を言われることも。

反対に意見が言いにくいのは、これまた以前に登場した拍手をする指導者のような当時50代(だったと思う)の女性先生。
「モリスさんは、次はシューマンのソナタで2番はいかがですか、いいですよね~。それとリストの練習曲で狩もお願いしまーす」
などという調子で一方的に決められてしまい、反論する気にもなれなかったが、いつも自分を上達に導いてくれるような、うまい選曲でもあったと思う。
高校生の彼が今年の目標曲としているのは、ドビュッシーの「2つのアラベスク」より2番。独学の時に一度挑戦してことがあったが、譜読みはしたものの仕上がりには程遠かったらしく、眠らせてあるような状態らしい。

もうそろそろ弾けるようには思う。しかし、彼は納得が充分なくらいに1曲を弾くタイプだから、今の時点で2番に挑戦してみても、彼自身が納得いくような演奏にはならないことは予想できる。
2番は、やはり1番よりは難しいと感じる人が多いだろうか。一応弾けていても途中から苦しいような感じになってしまう演奏を聴いたこともあるし、1音1音がしっかりと弾けていないのに、テンポが速くなってしまい、あせりのようなものを感じる演奏も聴いたことがある。

彼もそういった演奏にはならないようにと、独学の時についていた肘を動かす量が多い弾きかたや、右手中指の反りを修正するような練習を重ねてきたのだが、数ヶ月で格段に上達した腕前も、ここに来て進歩が遅くなりつつあるようだ。
それでも、毎週きっちりと課題を弾いてきて、がんばっているように思う。今週はアルベニスの組曲「スペイン」より「タンゴ」をリズムをいかして自信を持って弾いた。
本格的ピアノ曲がたくさん弾けるようなレヴェルまで、きっともう少しだろう。
レッスンで「もっとよく聴いて」などと言われ方があるだろう。自身の演奏をよく聴くことができているのか、というのも、基礎力のようなものだろうか。
やはり困ってしまうのは、曲を通して演奏して全くミスもなく弾けているのに、バランスが非常に悪くて音楽として成り立っていないような演奏をしてしまう人だろう。
そんな演奏をする人に
「左手の伴奏をもっと小さく」などを指示して、その場では一時的に少し良くなったり、伴奏は小さくするものだと覚えてたとしても根本的な解決にはならないし、「もっとピアノを音をよく聴いて」などと言ってみても、ほとんどの場合あまり効果は無いように思う。

それはどうしてだろうか。また登場する白髪爺さんに言わせると
「聴こえている世界が違うからだろうな」
ということになる。
優秀な耳がつくられる過程は人によって違うだろうが、やはり素晴らしい音楽を聴くことによって少しずつ耳がつくられていくことが多いだろうし、意識することによってかわってくるだろう。
そして、良い音楽を知っている耳を持つ人は、ピアノを弾くときに瞬時にバランスのとれた音楽をつくりあげてしまうことが多いように思う。
もちろん、感覚だけでは対処できない音楽もたくさんあるのだが、「聴こえている世界」の違いは簡単な曲を弾いたときにも、明確に差が出るものであり、指を速く動かすことなどよりも大切なのかもしれない。
ピアノを弾く基礎や基本という言葉に関して昨日書いたが、やはり普通一般に基本というと、「ピアノを弾く技術上の」という意味だろうか。
確かに、長年ピアノを弾いている人が習いに来たときでも、「この方は大きめの曲を弾いているけど、弾き方を基本的なところから見直しをした方が良いのでは」と思うことはある。

では、そんな生徒さんに出会ったときに、「基本」を身に付けていただくために、どんな練習が良いのか。
一般的に基礎練習のように思われているツェルニーが良いのか、それとももっと他の練習曲が良いのか。

おそらく何を弾いても良いのだろう。ツェルニーを徹底するのもひとつの手段かもしれない。
だが、ここでまた登場するのが白髪爺さん教授。
「おまえはもっとベートーベンを弾け。基礎の無さを実感すると同時に、基礎力が着実に向上する。それからシューベルトだ」
という言葉は、自分は毎回のように何度も言われた。
その時は、他にも弾きたい曲がたくさんあり、白髪爺さんの言葉を納得できなかったが、確かにベートーベンはピアノを弾き方があまり良くない方に勉強になるし、そして本当に実力がつく。「ピアノ曲を弾く」という底力のようなものがアップする感じだろうか。
もちろん、できるだけ良い指導者のもとで弾いた時の話だが。
意味があいまいだと思いながらも、つい使ってしまう言葉に「基本」や「基礎」というのがあるように思う。
例えば
「あの人はピアノを弾く基本ができていない」
「基礎力が足りない」
などという感じで言われることも多いだろうか。

ピアノや音楽の「基」とはどういうことだろうか。ピアノを弾く上での基本と言われても、結構漠然としているようで、また存在しているようでもある。
おそらく一般的な意味としては、良い姿勢で、手や指に余計な力が入らずに弾けていて、鍵盤をある程度コントロールできていて、譜読みはミスも少なく、レガートで弾けて、指はある程度は動きが良く・・・など、ようするに弾けているかというのが、基本といったところだろうか。

だが考えてみると、今あげてみたことだけでもしっかりと実行するのは、かなり難しい。基本でもあり高度でもありそうで、先日まで書いていた「あの手の彼女」のような領域でも通じるものがある。
つまり、ピアノを弾くということの、広く高度な意味での基本というのは、「あの手の彼女」くらいにピアノを自在に弾けることなのだろう。

それが、ピアノの基礎力なら、ピアノを弾いているほとんどの人は、基礎力が無いことになってしまうが、基礎や基本というものは、どんな世界でもそういうものかもしれない。ピアノの基本は、曲の難易度の上がると同じように、何年もかけて積み重ねていくようなものであり、普通は高度な基本を完全には身に付けることは難しい。

だから、ピアノの指導者に「あなたは基本ができていない」と言われたとしても、落胆することはないのでは?おそらくその先生も、基本ができていない(可能性もある)。
そして、普段レッスンで使われることが多い「基礎」や「基本」というのは、「基礎がおろそか」とか「基本練習」のように、どちらかというとあまり良いイメージの言葉でもない感じがする。
自分も時々使ってしまうけど。
ピアノだけではないが、音楽のレッスンというのは結構独特の言葉を使っていて、それに慣れてしまっていると、その言葉が普段はあまり通じない少し変な日本語だとことも、忘れてしまっている時がある。
自分も、大人の初心者や小学生などには平易な言葉の使用をこころがけているつもりだが、それでも音楽言葉がつい口から出てきてしまうことも。

だが、気をつけて使わないようにしている言葉もいろいろとある。例えば「違う」や「間違い」といった言い方。やはりあまり良い響きではない言葉なので、できるだけ使わないようにしている。
譜読みミスで違う音を弾いている時は、「ここの音、確認してください」と言う方法にしている。

音楽では他にも意味がありそうで、よくわからないような「レッスン用語」のような言い方というのはあるだろう。そんなことも少しずつまた考えながら書いてみようと思う。
今月は2人の大人の生徒さんが「次の曲はベートーベンの月光の1楽章を」を希望した。
月光は人気があり、レッスンに登場しない年はないくらいだから希望者が重なっても不思議ではないが、自分のイメージではどちらの方もこれまでにベートーベンを希望したことはなく、少し意外な感じだった。

月光1楽章の希望者のひとりは大人の女性で、丁寧に弾く感じだが最近は音を出せるようにもなってきた方。譜読みも結構速いので、仕事もあるが常に3曲くらいは曲を弾いている。
もう1人の希望者だ大人の男性で、何でもしっかりと弾くが繊細な感じも持ち合わせている方。こちらは譜読みは遅い生徒さんで、1曲集中タイプといった感じだろうか。

2人とも技術的なレヴェルとしては似たようなところだが、タイプは少し異なるので、どんな月光の1楽章に仕上がっていくのか楽しみでもある。
テーマ:ピアノ
ジャンル:音楽
「その手を貸してください」と冗談半分に言われこともあり、人の演奏を良く言うことは少ない白髪爺さん教授までもが「ピアノ専門人でも1000人に1人の手」と言うほどの手を持つ「あの手の彼女」について書いてきた。
他にも彼女の練習方法などはあったと思うが、全てを覚えているわけでもないで、一応このあたりで一区切りにするが、ここで白髪爺さんの彼女へのレッスンについて少し書いてみる。

当時は自分も同じく白髪爺さんに習っていたが、とにかく意見が合わなかった。これは既に過去に書いているので詳しくは省略するが、自分はレッスンで良いことを言われたことがほどんどないくらいで、特にバッハとベートーベンでは徹底指導を受けた。

では、彼女のレッスンではどうだったのだろうか。
彼女が言うには、
「白髪爺さん(と彼女は言わないが)は、感想はあまり言わないし、提案も無いかな。曲の中で定まらないような感じで弾いていると『そこ、どういう感じで弾くんだ?』とは聞いてくるけど。
レッスン時間にたいして曲が多いから、それぞれ1回通して弾くくらいで、あとは『まあいいだろう』か『次回はこの曲はもっと完成度をあげてくるように』という感じで」
ということらしい。
それを聞いたときは、同じ白髪爺さんに習っているのにかなり違いがあるとは思ったが、当然といったところだろう。

彼女のレッスンについて、自分は白髪爺さんにも聞いてみたことはあったが、
「聴いていて、おかしなところがあっても、すぐには言わない。彼女も気がついていて次回に修正されてくる場合も多いから。彼女のレッスンで重要なことは、ここをどうしろとか言うことではなくて、課題を弾いてくるペースを維持することだな」
と言っていた。
確かに、レッスンというのは定期的に他人に聴いてもらうこと自体が重要という面もあるが、白髪爺さんが「聴く役割」にほとんど徹しているとは、やはり高度なレッスンだということだろう。
そうだとしたら、自分のレッスンの時も、白髪爺さんには「聴く役割」をして欲しかったが、残念ながらそのようには最後までならなかった。
彼女がピアノを弾いているの姿は何度も見たが、、どんな曲を弾いてもそれほど意外性のあるような指使いをしている様子は無かったと思う。
これについて彼女は、
「私は使用楽譜に書かれている指番号を、結構そのまま使うことが多いかも。馴染みにくいと感じたら、他の楽譜を参考にすることもあるけど」
と言っていた。

だが、フレーズや弱音との指の関連について
「特定の箇所によっては、この指使い意外はありえないと思うこともあって、はっきり言うと、この指使い意外で弾いている人は『ちょっとね』と思うこともある。
でも、指使いならモリス君の方が研究好きなんじゃない?」
とも言っていた。
確かに、自分は困難な箇所をより弾きやすくしたり、音との関連性がより深いような指使いを工夫するのが当時から好きではあった。楽譜も何種類も比較するのも好きで、それにかなりの時間を費やすことも。
だが、彼女は指使いを工夫するというよりも、曲を弾いて時に「既に決まっているようなもの」だったのかもしれない。
音階練習が好きなのか、高度な技術を身に付けた後でも音階練習を毎日している人もいるが、彼女が自分と同じく白髪爺さん教授に習っていた当時、彼女は音階のみを弾く練習はしていなかったと思う。
もちろん、ある時期に音階をたくさん弾く練習はしたのだろうが、聞いてみると
「全部の調の音階練習は何度か集中して練習する時期はあったけれど、しっかり身についたと感じたのはやはり指の動きを見直した後かな」
と言っていた。そして
「音階だけを毎日練習に入れても、指を動かす練習としての効果や、音階系を含む練習曲を弾く手助けとしての効果は、意外と薄いと思う。ムダではないけれど、音階を含む動きを高速で弾くための動き自体が身についていないと」
と彼女は言っていた。

では、音階系を弾く動きというのは、どんなものだろうか。彼女は音階のような動きを高速で弾く時に、「鍵盤を包むような」と言っていた。
それは、全ての指がある程度鍵盤を思い通りに弾ける感覚があるなら、後は音階系を速く弾く動きをつければいいだけということで、その動きの表現が「鍵盤を包むような動きの感覚」になるのだろう。
彼女は音階系を含む高速な動きが連続するような曲を弾いても、音楽にも手の動きにも、当然とても安定感がある。
これについて
「多くの人は、動きを身に付けない段階で終わってしまうから、速く弾けないと思う。16分音符の音階系を4分音符120くらいで弾けたら良しとしてしまう人が多いけれど、動きを身に付ければ、もっと速く弾くのはそれほど困難でもないけど。高速の動き慣れが必要という感じかな」
と言っていた。
確かに彼女が弾くショパンの練習曲作品10-4や10-8などは、自分も速さなら同じようには弾けていたかもしれないが、手の動きの洗練さや余裕が違っていた。
世に一般的に知られているようなピアノ曲で、弾けないものなんて彼女にはあるのだろうかと自分も思うくらいだったが、彼女本人が言っていたように、
「どちらかというと、子供の頃から不器用なタイプだった」
だそうだから、それを聞かされた当時は不思議だった。

しかし、自分もそれから多くの人の演奏を聴くようになり、手も見るようになり、そして生徒さんの指導もするようになってからは、彼女の言うような「不器用なタイプ」というのが、悪くはないということは実感できるようになった。

とても簡単に言ってしまうと、ピアノの習い始めから指もすぐに動くようになって、スイスイと弾けて曲の難易度がどんどん上がっていくような人よりも、少しずつ弾いて教則本や練習曲も着実なペースでレベルアップしていく人の方が、その後~例えばピアノ歴10年くらいになった時には、うまくなっているようにも思うのだ。

これはそうだともは限らないが、そういう例は結構あるし、彼女はやはりそういうタイプの人だったのだろう。ただし、手の動きに不器用さがある段階でも音楽を感じる耳などは非常に発達していったのだろうから、単純に言うと「耳が先で後から指がついてくる」というところだろうか。
逆に耳の感覚が鈍感なままだと、厳しいとも言えるだろう。
彼女が自分と同じく白髪爺さん教授に習っていた当時は、ショパンやリスト、シューマンなどを主要曲としていくつか弾いていたが、バッハも常に弾いていた。
そして、ベートーベンも常に弾いていたと思う。
ベートーベンをいつでも勉強するように課題にされるのは、白髪爺さんの定番方針だったので、自分も含めて皆弾いていたが、彼女のように別格だと思われる人でも、主要曲ではなく同じくベートーベンを弾いているとは少し意外な感じだった。

しかも彼女が当時弾いていたのは、「熱情」でも「ハンマークラヴィーア」でも30番以降でもなく、9番とか16番などのあまり難しくもないソナタだった。
これは白髪爺さんの方針でもあったのだろうが、彼女はこれに納得していたようで、
「白髪爺さん(と彼女は言わないが)がベートーベンをもう一度しっかり弾けというのは、そのとおりでしょうね。リストの練習曲などを弾いていて、何か変な慣れのようなものが出てしまうことがあるけれど、ベートーベンを練習に入れていて、技術的にもいろんなことを再確認できる」
と言っていた。
それについては白髪爺さんも、
「何でも弾けそうな彼女の手だが、まだ悪い方向へと行ってしまう可能性だったある。リストやプロコフィエフやスクリャービンを弾けたら、はいそれで技術は良いというものではないからな」
と言っていた。
そして、自分のレッスンでも
「ピアノを弾く上での高度な基本というのは、確立したかのような時期が結構大切なのだ」
と、白髪爺さんは繰り返し言っていた。
ここまで数回に分けて、自分と同じく白髪爺さん教授についていた「その手を貸してください」という冗談を言われるくらいの手を持つ「あの手の彼女」の練習方法を中心に書いているが、ここで少し休憩というか、その彼女の耳について。

彼女が自在とも思えるほどの素晴らしい手を持っていたのは誰もが認めるところだったが、それは当然のように非常に優れた聴の感覚があることが前提になっていたと思う。
耳のすばらしさと言っても、絶対音感があるという意味ではない。彼女は絶対音感を持ったが、自分と同じくほどほど絶対音感であって、机を軽く叩いてその音程がすぐにわかるほどでは無かった。
耳も指と同じくすぐには進歩しないものだから、彼女が持っていた耳は、やはり長年かけてつくられていったのだろう。
彼女はピアノを習い始めた頃から多くの音楽を聴いていて、両親はピアノ音楽も好きだったが、それよりもモーツァルトの交響曲やチャイコフスキーの交響曲、そしてワーグナーが好みだったらしい(この点は自分のところも少し似ていて、子供の頃はベートーベンやシベリウスの交響曲を多く聴いていた)。

彼女はの子供の頃から聴いていたそれらの音楽が、ピアノ演奏に直接関係しているとは思わないとしながらも、
「オーケストラの楽器の聴き分けとか音のバランス、旋律の歌い方やリズム感などが、長年聴くことによって私自身の耳をつくることに影響はしたとは思う」とは言っていた。
それと同時に、
「良い響きバランスなどが身についているのはいいけれど、好きな音の響きバランスが固定してしまうのも面白くないから、時には意識して音のバランスと崩すことの必要性も感じる」
と言っていたことは印象に残っている。
テンポの変化練習というのをやる人も多いと思うが、彼女もテンポを変えて練習することは重要だと考えていたようで、メトロノームを使った練習もしていた。

だが、メトロノームを使うと言っても、よくあるようなそれに合わせて少しずつ速いテンポにして弾く練習ではなく、既に仕上がった曲のテンポを、変化させて弾くという練習だった。
ショパンのエチュード、例えば作品10の12の革命なら、当然4分音符が160またはそれ以上のテンポで仕上げの演奏ができるが、彼女はメトロノームを鳴らして異なる速さの152を確認したら、その速さでも最後まで弾ける。
自分はこの練習にそれほど意味があるようには思えなかったが、彼女は
「だいたい高速の曲を弾くとき、多くの人は何となく限界に近いスピードで弾けると、それが仕上がったテンポとして定着させてしまうけれど、本当はそうではないと思う。革命が160では無理だから150くらいではなく、160で弾けるけれど、テンポ設定を十分に考えた上で152にするというのが、自らテンポを決めたと言える気がして」
と言っていた。
結局、革命は160が良いと言って弾いていたが、例えば同じショパンのエチュードでも指定テンポ以上で弾ける技量はありつつも、10の1なら指定176よりも少し遅め、10-4は素晴らしく高速で弾いているなど、全ての曲で本当に「自らテンポを決めて」いた。
また「レッスンや舞台上でいつもより速くなるのを防ぐ効果もある(彼女は白髪爺さん教授のレッスンで緊張するような人では無かったが)」と彼女は言ったいたが、このテンポ設定と練習はとても高度なことで、技術に余裕があるということを一層感じたものだった。
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