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一つ前の感想に、「とにかく音をしっかり出す」や「強と弱の2種類しかない」ような演奏があったと書いたが、これを改善していくことは簡単ではない。

いや、コンペのような1曲か2曲を弾くような場合に、その曲に限って改善させることは簡単。楽譜にたくさん指示を書いて、そのとおり弾けるまでレッスンを繰り返せば、一応はそれらしい演奏が出来上がる。
でも、それでは演奏者の感受性が生かされてピアノが弾けるようになったとは言えないことは、多くの方が気がつくはず。

では、何が効果的なのだろうか。
毎日のピアノ練習の意識を改善することも必要、楽譜をしっかり読んで演奏に反映させる練習も必要、そして考えることも必要・・・

だがその前に、音楽をたくさん知らないと、それらのこともできない。

つまり、先日コンペを聴いて思ったことは、演奏している小学生達は、音楽を聴く量が圧倒的に少ないということ。だから、バランスの崩れた響きで弾いていても、そのまま最後まで弾いてしまうし、拍もだらだらと流れてしまっている。
どんどんたくさん聴くことを軽視しているわけではないのだろうが、それが無いのに演奏だけ上手くやろうとする方がかなり無理なことのように思える。

オーケストラをたくさん聴いて、どの音域にどんな楽器が使われているのか知る。どの楽器がどんなメロディーや伴奏を弾くことが多いのか感じる。
オペラを見て、一流歌手の歌と呼吸と演技を感じる。
弦楽四重奏を聴いて、声部のバランスと役割を考える。

今回見に行ったコンペの出場者の小学生は、音楽に少しでも興味があるから、ピアノを習って出場しているのだろう。だからこそ、弾くことも大切だが、聴くことを重視して欲しいと思う。
最初のうちは、ただ漠然と「この曲いいね」とか「いい演奏だった」だけでもいい。とにかく聴くことだと思う。
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当日見て聴いての感想は昨日の記事にだいたいまとめたが、もう少し感じことを。

一部の演奏者に感じたことは、この日のために何とか間に合わせてまとめてしまったかのような演奏をしている印象を受けたこと。
もちろん、期日はかなり前から決まっているし、この日に合わせるのは当然だが、そうではなく少し無理をしているような仕上がりに感じることもあった。

関連もするが、選曲が合っていないように感じることもあった。曲は複数からの選択性であるが、曲数が多くないので、必ずしも弾きたい曲があるとは限らないだろう。
しかし、クラスの中にも難易度や曲のタイプにある程度の幅はあるので、技術的にかなり無理な選曲をするよりも、仕上がる可能性のある選曲が良いと思う。例えばこの小学4年生以下クラスで地区予選必須の近現代は、ショスタコビッチ・ジリンスキー・田中カレンの3曲から選択できたが、この選曲には迷った方も多いだろう。
ショスタコビッチはかっこいいが技術力と理解力は必要であり、ジリンスキーも技術とある程度の速さは求められるが、この2曲のどちらかを選んだ方で、消化不良のような演奏も多かった。
だから、もう少し多くの方が、テンポもゆっくりとしていて、弾きやすく曲想もつかみやすい田中カレンを、納得いくような仕上がりで弾く選択もあったように思う。

これも選曲と関連するが、「とにかく音をしっかり出すことが良い」というような演奏をする方がいたように感じられる。
大きな音で弾くのも良いのだが、いつも強くて曲の箇所によっては少し雑に聴こえる方もいた。
また強弱をしっかりつけようとするのはわかるのだが、強と弱の2種類しかないような演奏の方もいたように思えた。
これは指導側にも少々問題があるのかもしれないし、演奏者も耳を育てる(音感とは違う)必要性があるだろう。

ミスは無い方が良いが、昨日にも書いたように少しのミスタッチというのは、ほとんど採点に影響しない(あきらかに弾けていないのは別)。僅かなミスが採点に影響するとしたら、非常に高いレヴェルの演奏者が多い時、しかも差がほとんどないような場合の時にのみ。
だが、審査結果発表後の会場でも、本番でのミスの話をしている出場者や家族関係者、指導者は結構多く(「本選出場した誰さんは、ミスもあったのにね」のような)、ピアノ演奏に対する注目するところが、少しずれているようにも感じた。

審査員の5人のうち、3人はご年配、1人は中堅、あと1人はとてもご年配といった感じ。
年配者が多いことは採点には影響はほとんどしていないと思うが、できればもう少し年齢構成を幅広くした方が無難ではある。
また、ひとりの審査員は、「あなたがステージで弾くのか?」と思うほど、華美な衣装?を着ていたのは、なぜなのか。

こんなことを感じた半日だった。
全国規模のピアノのコンペティション(要するにコンクール)の季節。
地区予選は日本全国各地で行われているが、自分も少し聴いてきた。
尚、自分の生徒が出ているのか、結果はどうだったかなどは書かないことにする。

時間的な都合等もあり全て聴けたわけではないので、一応全員を聴いた小学4年生以下というクラスについて。
このクラスは40名ほどが出場。
審査員は5名。
ピアノは日本最大メーカーさんの大きいサイズ。
調律もそこの技術者さん。
ピアノの音は良い感じだと思うが、中低音にやや伸びが足りないかもしれない。
ホールの残響は適度に良いが、人によっては響きが多めに聴こえるかもしれない。
運良く審査員にもっとも近い席の位置を確保できたので、だいたい同じような音響で聴くことができただろう。
おおよその審査基準と点数の付け方はわかるので、自分も演奏を聴きながらプログラムとメモ帳に点数をつけてみる。

全体的なレヴェルとしては、高いというほどでもないが、まずまずのレヴェルだろうか。地区予選でもあるから、一人くらいメチャクチャになったり、暗譜を忘れてしまうかと思ったが、そんなことはなかった。
ただ、非常に質の高い演奏をした人は少なく、感心したのは1名。小学4年生以下クラスだが、1年生だった。

この方はバロックと近現代(必ず弾く)の選曲。
ヘンデルを高速なテンポであり、まとまりがある。しかもリズム感と基本的な拍子をとても大事にしていて、曲想も良く表現できている演奏で好感が持てた。
一方のジリンスキーも、この曲を選択した中では速めのテンポで明確な演奏。あきらかなミスがあったが、それほど気にならないくらいに、最後まで集中した好演だった。

まずまずだったのは2名。どちらも方も安定していて予選通過は問題ないと思ったが、深い印象を与えるほどではなかった。
その次くらいに良かったのは1名。この方も予選は通過できそうだが、技術的には安定していないように思えた。

全員演奏の後、結果発表。自分が良いと感じた上記の4名は、予選通過者に入っていた
予選通過は10名。自分は通過可能性がありそうな12名(上記4名を含む)に印をつけていて、9名が入っていたが、1名はノーマークだった。
この1名はそれほど良いとも思えなかったが、自分の採点でも上記4名以外は僅差であり、審査員の判断次第ではそういったこともあるのかもしれないとは納得できる。

つまり、結果としては、
質の高い演奏をした人は全員予選通過できる(感心の1名・まずまず1名・その次くらい1名)。
全体としては偏りない採点だったと思う(自分採点と審査採点に、大きな差はない)。
それほど良くない方でも、予選を通過できる可能性はある(ノーマーク1名)。
といったところだろうか。

予選通過者で良い質の演奏としては、
曲の拍子をしっかり感じで演奏できていること。
響きのバランスを感じで演奏できていること。
曲想を把握して演奏できいること。
技術は安定していること。
テンポは曲の指定より極端に遅くならないこと。
といったところだろうか。それほど難しいことではなく、基本的なことかもしれない。
また、
少しのミスタッチは、採点にほとんど影響しない。
弱めの音で弾いた方でも、演奏の質のよっては評価が高い。
曲想を把握できずに弾いていると思われる方(特に近現代曲で)は、評価が高くない。
といったことも感じた。

余談。審査員5名のうち、
演奏者をじっと最初から最後まで見ている人は1名。
少し見る程度の人は2名。
ほとんどみない人は2名。
という感じだった。
前にも書いたが、楽譜というのは増える一方で、減ることはあまりない。
いや、自分の場合は生徒さんに差し上げることもあるので、厳密には減ることもあるのだが、それでもどんどん増えるのは当然だろう。

きちんと整理しているつもりでも、やはり時間とともに順番も乱れてくるので、時々並び替えなどをする。
つい先日も整理をしてみたが、楽譜を見ていると、
「きっとこの曲は、もう弾かないだろうなぁ」
と思うようなものも、結構あるもの。

以前弾いた曲は、少しくらい難しくても、もう一度楽譜をしっかり読んで練習してみれば、意外にそれほど時間を必要としないで、弾けたりもするもの。
だが、素晴らしい曲で弾いていない曲はまだまだ無数に近くあるのだから、過去に弾いてそれほど気に入らなかった曲は、レッスンでは使うだろうが、自身では弾かないだろうと思う。

そして、「もうきっと弾かない、いやおそらく絶対に弾かない」
と思った楽譜は、友人へ、生徒さんへ、と渡っていくことになる・・
ところが、楽譜を譲渡してから
「しまった、やっぱり手元に置いておけば良かった」
と思ったことも、これまでに何度か。
やはり、気分も考えも変わるものだから、絶対に弾かないなんて決め付けないほうがいいのだろう。
先日、かなり前から楽しみにしていたピアニストのリサイタルに行ってきた友人だったが、
「まあ、いい演奏だったのだろうけどね。なんだか少々お疲れ気味のような感じで。期待していただけに、少し残念かな」
という感想を言っていた。

確かに、ある程度名が知られているピアニストが、1時間半から2時間近いような大きなプログラムでのリサイタルとなると、結構期待してしまうもの。
友人もイメージが頭の中で出来上がっていたらしく、それとは少し遠い感じがしたのだろう。

だが、超一流のピアニストも、常に万全の調子とは限らないし、ホールのピアノとの相性もあるだろう。
そういったことも含めて「実力」といってしまえば、確かにそうなのだが、人間だから集中力や体力が長時間一定だとは限らない。

長時間ピアノを弾くといえば、以前にいったミュージカルでの伴奏ピアニストは、素晴らしいと思った。
2時間近いミュージカルの伴奏を、生のピアノ演奏の伴奏でやるというもの。
古いイギリスを舞台にした作品で、歌やダンスが次々と続くのだが、それをピアニストが一人で弾いていく。
ダンス音楽から、一瞬にしてソロの甘い歌声を盛りたてる伴奏への切り替えなど、頭もきっと大変。しかも2時間近くを休憩はないのも凄かった。
本番の集中力もそうだが、体力が気力もかなり必要なのだろう。
下記の記事に続いての楽譜もシリーズ?。
以前に書いてこともある内容と重複もしていると思うが、一応並べてみる。

モーツァルト・・校訂楽譜が手元になくても、何とか弾けることが多いので、原典版が1冊がまず必要か。
ヘンレ原典版かウィーン原典版あたりが普通では。自分はヘンレを使用。
参考校訂~バルトーク版。フレージングが独特だったりと、参考に使える校訂版。買うよりも、図書館や大学図書館などで見比べてみるといいかも。

ラヴェル・・デュランらサラベールなどのフランススの楽譜よりも、それを元にして校訂された楽譜が実用的。
おすすめ~(株)ショパンの中井正子校訂版。理由は下記記事のドビュッシーとほぼ同じ。

などが、自分が使いやすいと思っていたり、実際に使っている楽譜の一部。
もちろん譜面の見易さ、値段なども考慮することになるだろう。
楽譜を買う前には、習っている先生に聞いてみるのがいい。特におすすめが無いや、何度もいいと言われて迷った時に、これを参考程度に。
また、先生と違う楽譜を買って比較するのも一つの方法。


バッハと古典派とロマン派の場合、買う時に迷ったり目的の楽譜が店頭に無かった場合は、音楽之友社のウィーン原典版は、どの作曲家の場合も信頼度が高いと言われていて、無難な選択で大はずれが少ないように思う。
もちろん、これをダメだという人もいるが、他を買い足す場合でも持っていて損はない。

以下は他の日本版について少しだけ。
全音はダメだと決め付けている人もいるが、そうでもない。特に最近新たに見直しをして出版されたものや、外国出版者のもの日本版として出版されたものは、全音も質が高くて使える(ギロックやモシュコフスキー、カバレフスキー、バッハの一部など)。価格が安いのも魅力。

音楽之友社の標準版も、場合によっては使える。特に新しい標準版のシリーズはまだ数冊しかでていないが、質が高いと思う(ショパンエチュードやブルクミュラー25など)。

春秋社の井口校訂版のシリーズは、古い標準版に昔の井口氏の主観が入った校訂で、さすがに避けたいようにも・・・ただ、演奏がしやすい面はあるだろうか。

何度も言うが参考程度に。
楽譜の話が少しでてきたので、今回は「こんな楽譜もいいかな」というものを、少しだけ書いてみる。
この日記では、基本的に個人名や会社名などの固有名詞を出していないが、楽譜に関しては書かないと読んでいる方にも伝わらないので、書くことにする。

ドビュッシー・・フランスの楽譜であるデュラン版などに固執することもないと思う。
おすすめ~(株)ショパンの中井正子の校訂版。演奏で迷いがちなペダル、シフトペダル、指使いも補足されていて演奏しやすい。
ペダルは半分踏みかえの指示もある丁寧さがうれしい。
無難~音楽之友社の安川校訂版。日本では古くから普及している定番のドビュッシー楽譜だがペダルが少々疑問。しかし工夫しながら使える。

バッハ・・原典版にも複数の出版社があるが、それほど迷うこともないだろう。
おすすめ原典~音楽之友社のウィーン原典版。解説が日本語で読めるので、外国製の原典版よりもうれしい?感じ。
もちろん、ヘンレの原典版もいい。また、平均律などは全音からも外国の原典版をそのまま日本版にしたものが出版されている。
便利な校訂~ヤマハのブゾーニ校訂版などがペダルやフレーズ入りで結構人気だろうか。ただしこのとおり弾くよりも参考程度に。

ショパン・・世界のショパン楽譜の主流がエキエル版のナショナルエディションになっていくのは間違いなさそう。ただ、日本で一般に普及するにはまだまだ時間はかかるのでは。
おすすめ~意外にも(?)、音楽之友社のウィーン原典版は良いですよ。複数あるショパンの初版などを研究し、エキエル校訂も入ってつくられていて、ショパンの指使いの他、校訂者指使いも補足されている。
エチュードは音楽之友社の新標準版もいい。指使いもショパンのものと、区別した補足がありジョジュアーノの監修。
無難~パデレフスキ版。信頼性がどんどん低くなっている印象は否めないが、演奏しやすいので根強い人気か。自分も一部の楽譜はこのパデレフスキ版を使っている。

自分の好み程度のものだから、ピアノを習っている方は、当然先生とご相談されて購入した方が良いと思う。また「無難」という楽譜が、悪いわけではないので誤解されないように。
「安いしね、もう最近買うのはほとんど日本の出版社ばかり」
と、ラフマニノフ弾きのその指導者さんは、プレリュードも日本の楽譜だった。

理由としては、自分が生徒さんにいつも言うことに近いかもしれない。
つまり、どの版を買って使用しても、結局はいくつかを見比べながら書き込みなどをして、自身のオリジナル版をつくっていくような作業をすることになるからだ。


その土台となる版がどこの出版者の誰が校訂物が良いのかは、作曲家によって異なるだろうし、また好みもあるだろう。
また、最近は非常に多くの楽譜が手に入れやすくなり、特にしっかりと原典版を土台にしながらも、校訂者の参考指使いやフレーズ、明らかなミスの訂正などを、カッコで書いたり、作曲者の書いたものと区別してわかるように書いてある親切は版は使いやすい。

そういった意味では、昔のままただ増刷をしている日本版は、さすがに少し信頼性が薄いが、最近の日本版は研究熱心だといえる。
自分も、ドビュッシーなどは全て最近の日本版に買い換えようと思っているくらいだ。
昨日の続きのような話です。

その指導者さんは、「ロシアにいた時は、もっとひどい状態だった」と言ったが、それを聞くと本当にそうだった。

グランドピアノには、レッスンの時以外はほとんど触れることはできず、練習用のアップライトはたくさんあるが、もうどれもカスカスした状態?で、音に関しては全く望めないピアノ達だったらしい。
「お金持ちの留学生(何人なのかは・・・そういうことです)は、ちゃんと高級なピアノを持ち込んでいたけれどね、私はお金無かったから」
と、また笑って言っていた。

「でもね、学内でも学外演奏でもコンクールでも凄い演奏しちゃうのは、普段はカスカスのアップライトで練習しているロシア人だったりするの、本当に。彼らは小さな頃からそれなのでしょうけれど、まあ凄いのね」

そして、
「日本は幸いに大きな楽器メーカーが存在していて大量に良質のピアノがあって恵まれている。
それは良いことだけれど、『ピアノやるなら、これくらい持っていないと』とか『音高や音大目指すなら、このクラスのピアノですよ』みたいな宣伝や概念を、皆が正面から受けすぎちゃって、それがうまくなるために絶対に必要だと思い込みすぎかな」
とも言っていた。

これは確かにそうかもしれない。高級志向の概念とか、ブランド力のある宣伝とかに、どうしても流される傾向はありそうだ。
しかも、ラフマニノフのプレリュードを抜群の迫力と流れで弾く、この指導者さんの話だから、説得力がある。

「ホールは最高級さんクラスのピアノだから、安心して弾ける。でも、その最高級ピアノも、ホールによっては、経験浅い調律師が変に手を加えて、ダメになっていたりするでしょう。でもね、『最高級さんだから』と思っているから、気がつかない場合もあるのね」
と、またまた笑っていた。
「モリスさんのこのピアノは鳴りが気持ちいいし、弾いた感じもいいですよね。楽器に詳しくないから、どういったものか知らないですけどね」
と言って、その指導者さんは笑っていた。

これも先日、その指導者さんとやった練習会の時の言葉。この方が普段弾いているのは、もうかなり年数が経過していて、しかもある時期の10年くらいは全く調律もしないで眠っていたという、親の代からのピアノとのこと。
「古くて、もうどうにかしなくてはとはね、いつも思っているし、生徒にも申し訳ないとは思うのだけどね・・でもね、いいのよ。まだ弾けるし、最近はちゃんと調律しているし。
それに、私自身の練習はあれで大丈夫。もうハンマーとかあのままではダメなのでしょけどね、ロシアにいた時は、もっとひどいピアノだったから、今は恵まれているの。それに・・・ホールで演奏する時は、ちゃんと最高級さんが待っているでしょ。」
という言葉は本当に凄いと思う。

この時の話で、この指導者さんのロシアにいた頃の話を他にも少し聞いたが、やはり日本のピアノ事情(習うこと、そして楽器も含めて)は、かなり恵まれていることを、再認識した。
昨日の文で登場した某楽器店さんの方もそうだが、自分(モリス)のことを「先生」と呼ぶ。
ほとんどの場合は、最初に出会ったときに、
「すみませんが、自分は『先生』なんて偉い人でも何でもないので、できれば普通に『さん』で」
とお願いしている。

そうすると、
「あっ、そうですか?はい、わかりました」
と言うのだが、また次回会った時には、
「どうも、先生。お世話になっております」
などとなってしまい、毎回訂正するのもおかしい感じがするので、それ以上は言わないが・・・。

でも、楽器店さんや調律師さんが、ピアノ指導者どんな人にでも「先生」と言うのは、わかるような気はするし、「先生」と呼ばないといけないような雰囲気を漂わせている先生もいるのだろう。

自分は、自分の習った先生は「先生」と呼ぶが、それ以外の指導者仲間などには人には、年上でも基本的には「さん」だろうか。
ただし、明らかにご年配(これも基準もないが)な人や、誰もが先生と呼ぶ人には、「先生」をつけている・・・と思う。
先日、某楽器店さんが来た。
といっても、連休明けに来た楽器店ではなはない違う楽器店さん。自分が注文しておいたものがあり、取りに行こうかと思っていたが、届けてくださるというので、そうしてもらった。

届けてくれるということは、当然だが何かの営業的な話もあるわけで、楽譜の宣伝などのパフレット一式もたくさん置いていったが、話の中心は、
「実は、今月中旬からピアノのフェアーをやりますで、もしよろしければ。以前からの展示品はお安く即売もしますから」
と、ピアノの特別展示会のようなパンフレットを用意してきたようだ。

自分としては、先月に違う楽器店さんが来たときと同じく、
「すみませんね。今のところピアノ買う予定無いですよ」
と言ってしまったが、
「いえ、もし生徒さんにいらっしゃれば」
などと、また似たような会話が。

と思ったら、
「あっ、でも先生は、うちのピアノはあまり好みではないですかね」
言われてしまって、自分も一瞬驚いたというか、あわててしまい、
「そんなことはないですよ。買ったことあるじゃないですか、数十年前に」
と、一応弁解(?)してみた。

文章だとわかりにくいかもしれないが、お互いに笑いも交えながら話なで、和やかな会話だった。
話の中で印象的だったのは、
「売れるときは、ポンポーンと売れるのですけどね。その場で即決する方がいたりとか、最初から機種指定で来店する方がいたりとか。でもまあ、売れないときは全然ですけどね」
ということ。
言われてみると、何となくはそういうことがありそうだと、わかるような気がする。安くない買い物だから、買う予定の人は半分くらい決断してから試弾しにいく人も多いのだろうか。
「その箇所の弾き方、何か決めかねているというか、迷っているの?もしかしたら、あなたのやりたいのは、こういった弾き方じゃない?」
そう言って、横のピアノで弾いてくれる。
自分が、メンデルスゾーンの無言歌とか、ベートーベンの悲愴やシューベルトのソナタ、チャイコフスキーの四季などを弾いていた頃の先生は、そんな感じのレッスンだった。

他にも、
「そう弾くなら、ここに少しの間があってもいいかな」、
「そのメロディーは、もう少し主張してもいいかもね」
「同じようなものが繰り返されるけど、どうするの?意図的に大きく変える?それとも僅かに違いを出す?それともその時の気分?
どれでもいいけど、一応は決めた方が本番では失敗少ないよ」
というものであったと思う。

つまり、演奏そのものに関しては、どこか迷っているような時の、解決の糸口を示してくれるような内容のレッスンだったと、今考えると思うが、歌い方そのものを指導したり、「こういう感じで歌うように弾きなさい」とか「もっと歌って弾きなさい」なんてことは、一度も言われなかった。

それは、自分が優秀だったという意味では全然なく、音楽を歌を=簡単に言ってしまえば歌う心そのものを、教えることは基本的にはできないからではないかと思うし、誰かが歌い方を考えて弾かせるようなものでもない。
例えば、全く歌っていないような平坦な演奏に、「ここから大きくして、ここで頂点で、ここから・・」といった指導はできるし、弾く側も言われたとおりにやれば、それなりの音楽になるのだが、演奏者本人が歌を感じていなければ、やはり演奏はそれなりどまりだろう。

では、音楽の心、歌う心は、いったいどこで、何でつくられるのか?
それは、たくさん音楽を聴いて感じたことだったり、そこからの想像だったり、自ら弾いて感じたことだったり、深く考えたり、時には誰かの影響だったりといろいろだろう。

中でも、本当にたくさんの音楽を、全身で感じて聴くことは、少しずつ自らの感性になって、次第にものすごく演奏にいかされてきて、表面だけの表情をつけたような演奏している人なんて、問題にならないくらいに、内側からの素晴らしい演奏ができるようになる。

もちろん、歌い方を楽譜から細かく分析して、考える必要性の高い音楽もたくさんあるが、結局最後は感性が鍵盤の一音につながるのかなと、最近特にそう思う。
先日練習会を一緒にやった指導者さんだが、来月にちょっと人前で軽く弾くような機会があり、その準備という意味も練習会にはある。
やはり、誰にも聴いてもらわないでいきなり本番で弾くよりも、多少でも他人の耳で批評があると、気は楽になるというのもあるだろう。

「手持ちの、ショパン、プロコフィエフ、ラフマニノフなどの軽めの曲から、何とか間に合わせる感じにするかな」
と言っていて、先日聴いた感じではまだ仕上がっていない印象ではあったが、この方は間近になってあわててやるタイプだから、おそらく間に合うだろうとは思う。
本人も、
「いつか行った月光弾いていた『あの先生』のような、『何かの冗談みたい』なレヴェルだと、聴いている側も困ってしまうから、きちんと練習しておくね」
と言っていた。

その「月光弾いていた先生」の演奏会というのは、もうかなり前の話で、自分も聴きに行っていたが、終楽章が通常の半分くらいの速さなのにミスだらけといった感じで、まるで譜読み途中のような演奏。
確かに「何かの冗談」のような感じであり、プログラムに書かれている立派な長文の経歴が、なんだかとてもむなしかった。
「ベートーベンの初期ソナタを弾いて時期は、いい思い出が全然無いのよね」
と、先日のピアノ指導者が5人集まった会合で、ある指導者が言っていた。

それは正確には「ベートーベンが好きではない」ということではなく、その指導者がベートーベンの初期ソナタを弾いていた当時習っていた先生というのが、怒鳴りながら手を叩くような凄い人だったらしく、言っていることも全く頭に入らない状態だったらしい。

だから、ベートーベンの初期ソナタそのものに悪いイメージを持ってしまったらしく、当時からもう数十年?も経過している今でも、それはあまり変わっていないということだった。

だが、その指導者は「先生が全て悪いということでもなくて、やはりはじめて難しいと感じる曲に出会った時期だったのかもね」
とも言っていた。
確かに、教則本などがどんどん進んでいって、ソナチネアルバムなどもあまり苦労せずに弾いてきても、ベートーベンのピアノソナタというのは、いろいろな意味で難しさを感じる曲であり、進行が遅くなったりする時期でもあるのかもしれない。

だからこそ、そういった大切な時期に、怒鳴ったり叩いたりするのは意味が無いと思うのだが、数十年前の「ピアノの先生」というのは、それが当たり前でもあったのだろうか。
大人の生徒さんで、最初に
「独学でやっていたのですが、せっかく習うので基本的なことからお願いしたいと思います」
言われることがある。

だが、この言葉をそのままのとおりにレッスンをすすめるということにも、なかなかならない。
例えば昨年から来ているMさんは、独学で弾いていたので基礎からを要望していても、「エリーゼくらいは弾きました」のようなプライドもあったりする。
だから、打鍵が浅すぎで、指使いも無駄ばかり、手首もカチカチに固くて、ペダルのタイミングもできないという演奏をする人でも、文字通りの初歩教則本をやらせるわけにもいかない雰囲気の場合も多い。

そこで、いくつかの教本からMさんが選択したのは、おなじみのブルクミュラーの25で、順番にやってみることに。
最初の3曲くらいを終えた時点で、正直言ってMさんには、やはりもう一歩くらい手前の本の方が、良かったのかもしれないとは思っていた。

ところが、ここ2曲くらいは調子が良い。仕事が忙しくて弾く時間は確保できていないというMさんだが、手の変な緊張がほぐれてきたせいもあり、今回の「清らかな小川」は、Mさんにとっては簡単な曲ではないと思っていたのだが、非常にきれいにまとまっていた。ペダルのタイミングも、ぎりぎりだが合格ラインだろう。
Mさんが目標のショパンやベートーベンにはまだ遠いが、こんな感じで進んでいけるなら、ブルクミュラーで実力をつけられそうだ。
ここに書いていることは、音楽やピアノに関しての個人的な意見や感想や出来事であって、普遍的なことでも多くの人に共通することでもなんでもない。
今回も、自分は「こうかな」というだけの話なので、読まれる方も適当に読み流ししていただければ。

発表会とか演奏会とかコンクールなど、ステージ本番が近づいてくるとする。この時、きっと多くの方は「万全の準備で」と思って、ぎりぎりまで曲の仕上げのために練習すると思う。

それもいいのだが、自分の場合は、「今回はしっかり準備出来た」と思ったときよりも、「なんだか仕上げ途中で9割ちょっとかな」と思って挑んだ時の方が、結果は良い傾向にあるような気がする。

また、指導する側は、本番ステージ近くになると、指示が一層抽象的になってくる傾向があるように思うが、これも逆に方が良いように感じる。
つまり、改善したい箇所があるなら、指示は具体的にして、演奏者の脳にきちんと入るようにしなければ、本番ステージではできない場合も多いのかもしれない。

当日までの練習時間も、いつもと同じか増やす傾向の方もいるが、これも逆だろうか。
できれば、当日までの数日間は、ピアノを弾く時間を少しずつ短くしていくのがポイント。前日や前々日に多く弾きすぎて急に崩れだすのを防げるし、当然本番では1回しか弾かないので、練習でも通しで1回か2回くらいの気持ちでよいと思う。

もちろん、今回書いたこととは全く逆のことが良いと思っている方もいるだろうが・・・いろいろと試してみて、試行錯誤するしかないのかな。
テーマ:ピアノ
ジャンル:音楽
自分が幼い頃のモリス家の主要レコードレパートリーには、今年記念年のシベリウスも入っていて、「ベートーヴェン・シベリウス・ロシア物」というのが、3大レコードコレクションだったように思う。

4歳や5歳の時に、シベリウスの交響曲もよく聴かされていたが、こどもの頃はそうした広大な感じの曲よりも、活発な曲に興味がいくのだろうか。
幼少の頃の一時期好きだったのは、ハチャトリアンの「剣の舞」だったと思う。
この「剣の舞」に合わせて?、適当に踊っていたらしい(何となく覚えているが)。
だが、当時はもちろんレコードだったから、針がとばないように静かにしなければならない。だから、音楽に合わせて踊って飛び跳ねてもいいが、床に大きな振動を与えないように言われていたから、きっと滑稽な踊りだっただろう。

他にも、同じくハチャトリアンの「皇帝円舞曲」も好きだった記憶が。こちらは剣の舞に比べると、少しおとなしい踊りになっていたのだろうか。
そんな音楽に合わせて適当に体を動かすようなことは、現在でも立派に役立っている・・のかもしれない。
先日、知り合いの指導者さんと、お互いに弾いて感想を言うような、小さな「練習会」をした。

この指導者さんとの練習会ははじめてだったので、お互い軽めの2曲ずつ。
ちょっとしたポイントの確認程度で、「次回以降はもう少し深くやってみましょう」という程度の会で、時間の半分以上は雑談だった。

話で面白かったのは、この指導者さんは以前は他の方ともそういった練習会をしていたらしいのだが、
「シューマンを弾いていたけれど、曲の難易度とかそういった問題じゃなくて初級な感じだったのよ。常に鍵盤を浅くしか弾けないような奏法で、・・・練習会じゃなくて、私が代金いただいてレッスンする方が良かったのかも」
と真顔で言っていた。

確かに、1つ前に書いた「現役引退」とも関連しているが、びっくりするくらい弾けていない指導者は結構いる。
しかし、指導者という立場に一度なってしまうと、弾けていなくても、誰も本人には言ってくれない。そして、その弾きかたを生徒さんに教えているとなると・・・
自分も日々勉強しようと、あたらめて感じた練習会だった。
弾く作曲家以外は「興味が無い」のピアノ指導者さんだが、それでもレパートリーとして常に弾ける曲を持っており、演奏活動も何らかの形で続けていることは、自分も含めて他の4人も知っている。
そういった意味では、「弾く実力はある」ので、ピアノ指導者として、レッスンする作曲家が少なくてかなり偏っているが、それはそれで良いのかなとも思う。

今回の5人の集まりでも少し話題になったこととして、例えば、
「あの先生は今どうしているの?」
「ああ、今も教えてはいると思うけどね。もうはっきり言って、弾く実力が『現役引退』のようなものだと思うよ。小さなコンサートで、簡単な歌の伴奏をやっていたのを聴いたけど、歌い手さんの方が気を使っているような感じで、はっきり言ってかわいそうだったね」
といった話も出てきた。

確かに、こういった事はよくある話で、ベテランとか重鎮のように言われている「ピアノの先生」でも、全然弾けないような人は結構多い。
やはり、「指導しているうちは、弾けるように」と思っているか、または「ピアノが好きで時間があればいつも弾いている」という人のどちらかでない限り、それまでも相当の勉強をしてきたと人だとしても、演奏力を維持するのは、なかなか維持するのは難しいだろう。
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